聖徳太子の虚像と実像(前編)

  • 2017.07.01 Saturday
  • 01:49

 聖徳太子といえば誰もが知っている日本古代最大の偉人であります。
 小学校の時に習ったのは、とても頭が良く10人の話を一度に聞いて全てを理解したとか

神様のような人だったと教えられました。
では聖徳太子は何をした人でしょうか?
たしか中学校の時に「憲法十七条」や「冠位十二階」「遣隋使の派遣」などを成し遂げたと習

った記憶があるのですけど、本当にそうでしょうか?そして、日本に仏教を広めた人ですよね。

 

 

聖徳太子と言えば誰もが昔から超偉人であり、日本の英雄であると教えられたと思います。
  (この聖徳太子肖像画は百済(朝鮮半島の一国)の王子だった人です)

私が大人になり、日本史や古事記に興味を持ち、歴史を調べているうちに疑問に思った事が

幾つかあります。
そして、私は仏教派ではなく、神道派なのです。(一言付け加えれば筋金入りの)
歴史をたどれば、必ず古事記にたどり着きます。古事記をごく簡単に説明すると高天原にいる

神様が地上に降りてきて、国作りをする話。

その神様の子が日本の国作りを行い日本全土を平定したのが初代天皇であり、神武天皇となって

います。初代神武天皇から神の血を受け継いだ現在の125代目の今上天皇まで続いており、

これからも神の血を受け継いだ天皇制度は永遠に受け継がれる事だと思います。


つまり天皇系のご先祖様は神様であるから、当然、私以上に筋金入りの神道派のはずなんです。


物心ついた頃から神様であるご先祖を崇拝し、徹底的な教育を受けているはずなんです。
その神の血を引く第31代用明天皇の第2皇子である聖徳太子が、母は欽明天皇の皇女であるから、
神の血筋を引く神道派のはずの聖徳太子が、先祖をないがしろにして本心で仏教を薦めるので

しょうか?  私には信じられません。
聖徳太子が作ったとされる憲法17条には・・・(現代語訳あらまし)

 

第1条 一に曰く、和をもって貴しと成し、忤う事なきを宗とせよ
第2条 あつく仏教を信仰せよ
第3条 天皇の命令をうけたら、必ずそれに従え
第4条 役人は礼儀を基本とせよ
第5条 私利私欲を捨てて公平な裁判を行え
第6条 善をすすめ、悪をこらせ
第7条 人は各自の任務と役目を行え
第8条 役人は朝早く出勤し、遅く退庁せよ
第9条 すべての事に信をもって当たれ
第10条 人の過失を怒ってはならない
第11条 役人の功績と罪科にかなった賞罰をせよ
第12条 地方官は人民から税をむさぼり取らぬようにせよ。国に二人の君はなく、人民に二人の主はない

第13条 役人は職務の内容を心得よ
第14条 役人は他人を恨んだり妬んではいけない
第15条 私欲を捨てて公共の立場に立つのが臣民の務め
第16条 人民を使役する時は、時節をわきまえよ
第17条 16物事は自分一人で決めず、よく論議せよ

 

問題は、2条の「あつく仏教を信仰せよ」
こんなことを、神を先祖とする皇太子が言うでしょうか??


全く別人が作ったように思うのですけどね〜・・・


聖徳太子の事を簡単に説明すると・・・
聖徳太子は西暦574年に生まれる。
 本名は厩戸豊聡耳皇子(うまやどノとよとみみノみこ)
 母が懐妊し、庭を散歩している時、厩(うまや:馬小屋)の辺りで急に産気付き生れたので、

その名がついた。

その後死ぬまで厩戸皇子(うまやどおうじ)と呼ばれていた。
厩戸皇子は西暦622年に49歳で病で亡くなったとされています。
聖徳太子という名称は死没129年後の天平勝宝3年(751年)に改名された名前なのです。
推古天皇が太子暗殺に関与したという説もあります。
 太子が合葬で陵に葬られており、死から埋葬までの殯(もがり)の期間が短く、新たな陵を

つくらずに合葬の形をとるのは、暗殺などで「異常な死」を遂げた貴人を葬る場合が多いとされ、

3人いた妃の中でも最も身分の低い膳大郎女と合葬された点でも、太子の死が尋常ではなかった

ことを示しているといわれます。
 聖徳太子は推古天皇30年(622年)の2月22日、太子の妃・膳大郎女の死を(2月21日)

看取った翌日病没したとされてますが・・・?

(心中説もありますが、謀殺されたと言う方が信憑性が高いです)

天皇系で仏式の葬儀をしたのは、後にも先にも太子だけでしょうね。
私の家系も代々神道派なので、家系で仏式の葬儀をあげた人は聞いた事がないです、もし仮に

仏式で行おうとすれば、親族一同「馬鹿か?」と大反対するでしょね。
当時の天皇(推古天皇:女性)又、その皇族も大反対したと想像しますけど、蘇我一族がそれを

押し切って仏式葬儀を行ったのではないでしょうか?それだけ力があったのでしょうね。
太子亡き後は、蘇我馬子のやりたい放題。

その後、子の蘇我蝦夷(そがのえみし)が大臣となり、その子である蘇我入鹿(そがのいるか)

が良く頭が切れ、(ずる賢く)厩戸皇子死没129年後に 厩戸皇子は非業の最期をとげたと言う

ことで、その怨霊を恐れ、「聖徳太子」という立派な諡をつけたとする説が本当のような気がします。
聖徳太子は、歴史上架空の人物で、そのモデルは蘇我入鹿ではないかと思われます。


その後、蘇我一族の権力が天皇家を上回るほど強くなり、やりたい放題の蘇我一族に対して中大兄皇子

(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが中心にクーデターを起こし蘇我入鹿を謀殺し、

蘇我蝦夷を自殺に追いやりますね。(645年の大化の改新です)
この二人の方が、聖徳太子より汚れた権力を変えた英雄のように思えますけどね。


厩戸皇子が政治に携わったのは飛鳥時代なので、実際に政治に関わったのは5年ほどになります。
聖徳太子が建立したお寺は七つあり、法隆寺・法林寺・法起寺・広隆寺・橘時・中宮寺・四天王寺
とされているが、全て歴史の嘘でしょう。

柱を自然乾燥で作るなら普通20年掛かりますよ。それを5年間で七寺も作る事はあり得ない。

聖徳太子は多分1棟も作ってないと思われます。
推測では多分蘇我馬子の一族が聖徳太子の怨霊を恐れ、太子が建てた事にしたのではないかと想像する。

 3000年という日本最古級の歴史を持つ愛媛県松山市の道後温泉。
太子は体が弱く、松山の道後温泉に病気療養のために滞在した事が伊予国風土記逸文に記されている。

 

 

 

 聖徳太子は蘇我馬子又は蘇我入鹿であったという説もある。
聖徳太子の実像は、我々の習った聡明賢者とは全く真逆の人間だったように思えてなりません。
蘇我馬子らによって天皇の子と言うだけで、政治利用された何も知らない病弱な悲しい皇子

だったのかもしれないのです。

そうです、物部氏VS蘇我氏の宗教戦争に利用された悲しい皇子だったのです。
この続きは次回にしましょう・・・・


では又・・・・管理人。

 

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